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客車にも蛇腹の時代

8月25日、コロナ運休による余剰車を活用して、蛇腹方式の貫通幌設置試運転がマンガライ~バンドン間の往復で実施されました。KAIの客車では、付き合て式のゴムタイプ貫通幌が長らく採用されてきましたが、防音性、防水性の観点から蛇腹方式の採用の可否が議論されてきました。電車でも日本の中古車以外には引き続き付き合て式が採用され、KFWでもそうなっていますが、2017年以降、LRTやRalinkの電車にはINKA製であっても蛇腹が採用されています。





付き合て式のものより、近代的で格好良いという単純な理由もあってか社内的には好評で、それで客車にもということになったのではと推測しますが、固定編成の電車と異なり、連結・切り離しが目まぐるしく続く客車では、作業効率からしたら、圧倒的に付き合て式に軍配が上がると思うのですが・・・。その辺はあまり考えないんでしょうね、ここの人たちは。そもそも客車はデッキ付きですから、確かに連結面は走行音で煩いですが、車内の静寂性は問題なく(特に新型客車では)、安全性に問題があるわけでもないですし、わざわざ交換する必要があるのか?と思います。

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日の当たる地平ホームも、もうじきお別れですねぇ
メインは蛇腹ですのでスナップにしか撮っていません(笑)
扉は閉ざされていて車内側からは見れませんでした・・・

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連結部拡大

このように旧来の幌は枠ごと完全に撤去されています。なお、この幌は中古車両からの使いまわしではなく、新品となっています。KCI車両の幌も経年車は交換が進んでいますし、これくらい現地メーカーで安く作れるでしょう。一つ、可能性としてはRailinkの空港電車が大量余剰になっていますから、そこから拝借したというのはあり得るかもしれませんが。いつも幌までマジマジと観察することなんてないですから、何とも言えません・・・。逆に言えば、コロナ禍だからこそ出来る試験で、通常であれば、他車両との連結が出来ない為、この3両のみを固定運用に入れる等の、営業的には面倒な処理が発生してしまいます。

また、見た感じ着脱が容易には思えず(新規に発注しているとしても、電車用のものそのままでしょう)、試運転するのはいいですが、客車区での入れ替え作業を果たして考えているのか、非常に気になります。しかも、交換するとなれば、ある程度一気に交換しないと運用に支障が出るでしょうから、本採用となれば、短期間でK2、K3の全冷房化を進めたとき同様に、かなり大規模な動きが発生するはずです。

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当該車両の連結面以外は従来通りの貫通幌

今回、蛇腹方式の幌が試験設置されたのはK1 0 86 18, K1 0 82 06, K1 0 66 27で、この連結面2か所のみが交換され、それ以外は従来の付き合て式のままとなっています。この3両は所謂改造小窓と呼ばれるグループで、K2からの改造車です。この1年半におよぶコロナ大減便の中、新型客車や大窓Argoを優先的に運用しているため、このようなグループは各地の側線で朽ち果てており、この3両も錆が浮き出てて、なかなかやさぐれた状態でした。

果たして今後、この車両が蛇腹方式のまま営業に投入されるのか、従来幌に戻されてしまうのか、はたまた余剰車のまま廃車になってしまうのか、今後に注目です。

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コメント

コメント一覧

    • 客車研究中
    • 2021年08月31日 12:10
    •  はじめまして。このブログをいつも楽しく拝見させていただいております、インドネシアの客車について関心がある者です。この新しい蛇腹式の貫通幌が本格的に普及するとしたら、1970年代導入客車より長く続いた付き当て式のゴムタイプ貫通幌の採用も終焉を迎えそうですね。
       ところで、今回の幌試験の対象である小窓のK1客車3両はすべてK2からの格上げ改造車とのことなので、K1 0 86 18は1986年INKA製の車両、K1 0 82 06は1982年日本連合(日本車両、近畿車輛、富士重工など数社)製の車両がそれぞれの種車になっていると思うのですが、残りのK1 0 66 27は東ドイツ(当時)のゲルリッツ車両工場にて製造された車両が種車になっているのでしょうか? 1960年代導入のK2客車の製造元や概要が調べてもいまいちよくわからないので非常に気になっています。
    • パクアン急行
    • 2021年08月31日 15:07
    • >客車研究中様
      いつもご覧いただきありがとうございます。
      インドネシアの客車については形式名がないこと、さらに改造に改造を重ねていることもあり、特に70年代以前の車両については非常に謎な部分が多いです。配置表はあれど、過去の改造遍歴を含む部分は当地でもなかなか資料が見当たりません。電子化前の資料ですから、もう散逸して残っていない可能性が高いです。

      仰る通り、86年製のものは日本から輸出されたものをベースにしたノックダウン生産、82年製は日本国内生産です。1982年には過去最大の211両が日本から輸出されていますので。日本連合から最初に輸出されたK2は62年~63年にかけてと思いますが、66年には日本から輸出された実績がないはずですので、東独製の可能性は高いですね。銘板もなく、決め手となる台車は振替でNT台車に交換されてしまっているので断定は出来ませんが・・・。日本製客車はなんとか資料が国内に残っていても、それ以外のものは正直全容を明らかにするのはかなり厳しいですよね・・・。
    • 客車研究中
    • 2021年09月02日 00:40
    • >パクアン急行様
       こんばんは。返信ありがとうございます。
       インドネシアの客車に正式な形式がないことや改造車が非常に多いことは、インドネシア人の鉄道愛好家の方からの情報や、書籍「インドネシア鉄道の旅」において既に把握しておりましたが、気になる細かい改造遍歴などの資料は同地内においてもなかなか見つからないのですね...。 それと、現在の時点で改造された車両の製造元や国を推測する方法としては、トイレ部分の屋根上に一つ残るベンチレータの形状を見ることがほぼ唯一の手掛かりになると思います。

       仰る通り、日本製以外は勿論のこと、日本製でも1960年代製造の車両をまとめて記した資料はなかなか見つからず、それらの全容を明らかにするの正直はかなり厳しいですね...。それでも、何とか入手できた資料(日本鉄道車両工業会や日車などの作成・執筆)を改めて確認してみましたが、やはり1966年に日本からインドネシアへ客車が輸出されたという記録はなく、また別の手持ちの資料(唯一入手できた東ドイツの鉄道技術誌の記事)に「1966年に多数の2等車を製造・輸出した」という記述があったので、K1 0 66 27の種車が東ドイツ製である可能性は十分にあります。また、1962年頃に日本連合がK2を輸出したという件については初耳です。手持ちの資料の内容では、日本連合より1963年頃から1965年にかけてK3およびBが135両、1978年にK2が34両、1980年から1982年にかけてK2とK3とKM?3が154両輸出された、という記録になった(連合ではなさそうですが、1959年および1961?年に日車より西スマトラ局向け小型K3・KB3が30両輸出された記録もありました)ので...。ちなみに、仰る1982年の211両については、輸出組合の方が執筆された記事によると同年の輸出分ではなく契約分で、内容は1985年から翌年にかけてのINKAノックダウン車らしいです(ノックダウンながら統計上は「完成車輸出」)。

       長文大変失礼しました。
    • パクアン急行
    • 2021年09月02日 01:24
    • >客車研究中様
      トイレ上のベンチレーターですか。確かにそれは一理あるかもしれませんね。ただ、50~60年製の改造車だと台枠以外はほぼ流用されていない可能性もあり、改めて現物を見てみるしかないですね。

      組合の統計資料を見ると1962年・1963年に計135両の客車が輸出されたとあるので、おそらく客車研究中様が見ている資料と出所は同じではないかと思います。Bは客車に含まれているでしょうから。今は淘汰されていて確認しようがないのですが、66年以前製のK2を見た記憶があり、この135両にK2も含まれているものと勝手に考えていましたが、となると私の思い違いかもしれません・・・。また、1982年のものは後に全てノックダウン生産なのですね。82年製を名乗るK3も存在するので、これのことかと思っていましたが、これは1979~1980年に“契約“された車両が納入、運用開始したのが1982年ということなのでしょうね。運輸省附番ルールも、厳密に製造年とする時代と、運用開始年を基準とする時代があり、このあたりも客車形態分類を困難にしているかと思います。
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